極秘プロジェクト

第二次世界大戦の末期

軍部が最後の決戦の地として

極秘に大本営や政府、皇室等を

松代の地に移す計画の元に、

松代大本営地下壕が建設されました。

建設中に終戦を迎えてしまったので、

ここは戦場にはならなかったのですが、

過酷な労働で多くの人が犠牲になりました。

そのうちの一つ、象山地下壕は

戦争の悲惨さを後世に語り継ぐ為に、

大切に当時のまま保存され、

平成元年より一部を公開しています。

ただ今、

その地下壕の中を歩いております。

屋外は今日も猛暑!

焦げてしまいそうな暑さですが、

地下壕の中は、とても涼しいです。

時より、

コウモリがバタバタと飛び立ち、

歩いていて気持ち良い物ではありません。

沖縄の、ひめゆりの塔や旧海軍司令部壕。

鹿児島の知覧など、

戦争の爪痕を残す地域をいくつも見て来ました。

足を踏み入れた瞬間に、

胸が苦しくなるのは、どこも同じです。

コロナ騒動の次は、

第三次世界大戦が起きるとのシナリオがあるそうですが、

二度とこのような過ちが起きないことを祈るばかりです。

いつまでもお元気で!

特攻隊が出撃前に書いた遺書には、

父や母、

家族に対する感謝の気持ちが

綴られていました。

「いつまでもいつまでもお元気でいてください。」

家族に残したこのような内容の遺書が多数、

知覧平和記念会館に展示されています。

19〜20歳の若者の文章とは思えない

立派な手紙ばかりでした。

遺書の前で胸が詰まる思いと、

涙が溢れて来た事を

今も鮮明に覚えています。

開聞岳、

特攻隊が飛び立った時、

何度もこの開聞岳を振り返って、

二度とここに戻っては来れないと、

覚悟を決めて敵艦に向かって行ったそうです。

常に感謝の気持ちを持って、

日々、

一生懸命生きているつもりでも、

特攻隊員の事を思うと、

まだ何かが足りないのを感じます。

嫌いな芸人ランキング第1位

今日の万座は快晴でした。

寒さも和らいだ感じで過ごしやすかったです。

ウーマンの村本さんが、

ある番組で“嫌いな芸人ランキング第1位”に選ばれました!そうです(^^)

おめでとうございます????

今日放送された、THE MANZAIでも絶好調!

これからも、

“嫌いな芸人ランキング第1位”の座を死守して下さい!

応援しています!

 

沖縄・慰霊の日に

今回も無事に沖縄宜野湾市での講演を終える事が出来ました。

悪天候の中お越し下さった皆様、そして、主催して下さった玉寄みつ子様に心より感謝申し上げます。

20日、東京に戻る日だったのですが、その前にどうしても行きたい場所がありました。


三日後の今日23日は、沖縄慰霊の日という事も有り、旧海軍司令部壕とひめゆりの塔に、参拝させて頂きました。


旧海軍司令部壕の前には、海軍戦没者慰霊碑が建っています。


資料館には、戦時中に司令官や幕僚が書いた手紙や遺書が残っています。

追い詰められていた状況が、克明に書かれています。

壕の入口を入ると、地下へと向かう長い階段が続きます。

下には、かまぼこ型のトンネル状の通路が、迷路のように張り巡らされていました。


壕の中には、作戦室、信号室、暗号室、司令室、幕僚室、下士官・兵員室、医療室、暗号室などが配置されています。

1945年6月4日

米軍第六海兵師団が小緑地区に上陸。


6月6日

米軍が小緑飛行場を占拠。


6月11日〜14日

米軍による総攻撃で、海軍沖縄方面根拠地隊が全滅しました。


6月11日午前7時、

司令部壕に集中攻撃が加えられた。

同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられました。

13日午前1時、大田實司令官はこの司令室で拳銃で自決。

ここ、幕僚室では、13日、大田司令官と共に幕僚6名が手榴弾で自決しました。


その時の、手榴弾の跡が残っています。

6月23日午前4時30分

摩文仁洞窟に置かれた司令部壕にて、第32軍司令官・牛島満中将が長参謀長と割腹自決をしました。

これをもって、組織的戦闘が終結されたとして、6月23日が、沖縄・慰霊の日として制定されたそうです。

その、牛島満中将が自決した糸満市摩文仁には、ひめゆりの塔や平和記念公園があります。

帰りの飛行機の時間があった為、平和記念公園には行けませんでしたが、ひめゆりの塔には参拝させて頂きました。

ひめゆりの塔は、沖縄陸軍病院第三外科壕跡に建てられた慰霊碑。

「塔」と名付けられていますが、実際はご覧のように60cmくらいの大きさです。

沖縄戦末期に、沖縄陸軍病院第三外科壕に学徒隊として従軍していた、ひめゆり学徒隊にちなんで名前がつけられたそうです。


実際にこの洞窟の中が、病院だったのです。

ここに数多くの負傷兵が運び込まれていました。


1945年3月24日

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍しました。

しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされ、5月25日に南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。

6月18日

戦局が絶望的になり、学徒隊は解散を命じられる。

最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊でした。

第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、、第三外科壕にいた人々のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに5名だったそうです。


隣接する平和祈念資料館には、生き残ったひめゆり学徒隊の方の貴重な証言や資料が残っています。

改めて戦争の悲惨さ、愚かさ、そして命の大切さを感じました。

この日も、たくさんの学生が訪れていました。

これからの日本が、そして世界が、平和である事を祈念します。


合掌。